文字起こしAIを比べるとき、最初に見られやすいのは認識精度です。しかし、取材原稿の品質を左右するのは、正しく聞き取れる割合だけではありません。フィラーや言い直しを残すか、話者を分けられるか、固有名詞を事前に渡せるか。出力前の設定が、編集者の手元に残る素材を変えます。
Microsoftが2026年9月3日に更新したMAI-Transcribeの公式文書は、その違いを明確にしました。本稿では同文書を手がかりに、取材ではなぜ verbatim を起点にするのか、文字起こしAIと制作会社をどの順で選ぶかを整理します。
精度より先に設定を見る
Microsoftの公式文書によると、MAI-Transcribe-2は日本語を含む60言語に対応します。話者ダイアライゼーション、単語単位のタイムスタンプ、キーワードバイアス、コードスイッチング、ノイズへの耐性も備えています。
三つ目は見落とせません。MAI-Transcribeは現在パブリックプレビューで、Microsoftはサービスレベル契約なし、運用環境のワークロードには推奨しないと明記しています。機能が魅力的でも、取材案件の標準フローへ直ちに固定する段階とは限りません。
精度の比較表だけでは、この判断に届きません。対応言語、出力設定、プレビュー条件、モデルの更新方針まで見て、初めて業務で使えるかを評価できます。
用語を渡せるか
phraseList.phrases で社名、製品名、略称、専門用語をヒントとして渡せます。強制出力ではないため、最終確認は残ります。
話者を分けられるか
ダイアライゼーションを有効にすると、発言を話者別のセグメントに分けられます。複数人取材の照合負荷を下げます。
音声へ戻れるか
単語単位のタイムスタンプがあれば、固有名詞や微妙な言い回しを該当箇所へ戻って確認できます。
素材を残せるか
transcribeStyle で逐語寄りの verbatim と、読みやすさを優先する clean を選べます。
cleanが消す判断材料
clean と verbatim は、優劣ではなく用途が違います。会議の要点共有や字幕では、フィラーを取り除いた読みやすい文章が役立ちます。一方、取材では言い直しや自己修正が、話者の判断過程を示す場合があります。
- 会議メモをすぐ共有する
- 読みやすい字幕を作る
- 発言の細部より要点を使う
- 原音との逐語照合を前提にしない
- 取材原稿の素材を残す
- 法務・金融など確認が厳しい
- 言い直しや迷いも検討する
- 原音と原稿の差分を追えるようにする
たとえば、「導入直後から成果が出ました。いや、正確には三か月目からです」という発言を考えます。後半の自己修正を失えば、成果時期が変わります。「当初は全社展開を考えましたが、まず一部署に絞りました」も同じです。言い直しは、話者が誤解を避けようとした痕跡です。
Microsoftの文書は、verbatim がフィラー、言いかけ、自己修正を含む生の発話を保持すると説明しています。反対に clean は、読みやすいキャプションやメモ向けです。取材で clean を使うなら、原音と逐語版を別に保存し、失われた表現へ戻れる設計が必要です。
取材では逐語から始める
取材原稿では、原音、逐語版、編集用原稿を分けます。逐語版を直接上書きせず、整える判断を後段へ残すためです。
原音を保管する
録音データを変更せず保存し、案件名、取材日、話者、同意範囲を紐づける。保持期間とアクセス権も決める。
用語を準備する
社名、製品名、人名、部署名、業界用語を一覧にする。AIの候補だけに頼らず、公式表記と照合できる資料を用意する。
逐語で起こす
verbatim を起点にし、話者分離とタイムスタンプを有効にする。聞き取れない箇所は推測で埋めず、要確認として残す。
編集用へ複製する
フィラーの整理、重複の削除、語順の調整は編集用原稿で行う。意味を変える修正と読みやすさの修正を分ける。
原音へ戻す
数字、固有名詞、否定、比較、時系列を重点的に再生する。必要に応じて話者へ確認し、変更履歴を残す。
この手順なら、読みやすさと忠実性を対立させずに済みます。フィラーを残したまま公開する必要はありません。公開前に整えてよい。ただし、整える前の素材へ戻れる状態は保ちます。
固有名詞で差がつく
企業取材では、一般語より固有名詞の修正に時間がかかります。社名、製品名、英字略称、部署名は、文脈だけでは判別しにくいからです。MAI-Transcribe-2の phraseList.phrases は、こうした語を認識のヒントとして渡せます。
ただし、公式文書はキーワードバイアスを「ヒント」と説明しており、指定語の出力を保証していません。用語集を渡した時点で確認を省くのではなく、確認対象を絞る機能と考えます。
- 社名・ブランド名
- 製品名・型番
- 人物名・部署名
- 略称・業界用語
- 公式サイト上の表記
- 大文字・小文字・記号
- 数字と単位
- 同音語・旧名称との違い
話者分離も同様です。発言者ラベルが付けば、対談や座談会の整理は速くなります。しかし、声が重なった場面や短い相づちでは誤る可能性があります。話者名の確定は、録音時のメモと原音を使って編集側が行います。
モデル変更を前提にする
Microsoftの文書では、MAI-Transcribe-1が2026年8月20日付で非推奨とされています。モデル名を業務フローへ固定すると、切り替え時に出力が変わります。精度だけでなく、フィラーの扱い、句読点、話者分離、タイムスタンプの形式も再検証します。
設定を記録する
モデル名、API版、言語指定、transcribeStyle、話者分離、用語リストを案件ごとに残す。
試験音声を持つ
一つの過去音源を回帰テスト用に保存する。固有名詞、言い直し、重なり発話を含む箇所を選ぶ。
差分を比べる
モデル更新時は同じ音声を起こし、削除された語、話者、数字、タイムスタンプを比較する。
切り戻せるようにする
プレビュー機能だけに依存せず、既存手段を残す。原音と逐語版があれば、再処理もできます。
文字起こしのモデルは、導入して終わる道具ではありません。案件ごとの再現性を保つには、設定と出力を一緒に記録する必要があります。
外注先へ聞く6項目
制作会社へ「AIを使っていますか」と聞いても、品質管理の差は見えません。確認したいのは、どの工程を自動化し、何を素材として残し、誰がどこを確かめるかです。
どの設定か
モデル名と版、clean/verbatim、話者分離、タイムスタンプの設定を説明できるか。
用語をいつ渡すか
取材前に固有名詞を集める工程があるか。発注側が用意する資料も明確か。
何を保存するか
原音、逐語版、編集版、確認履歴を分けて保管するか。保持期間と削除方法も決まっているか。
誰が聞き直すか
数字、否定、比較、固有名詞を原音へ戻って確認する担当とタイミングがあるか。
機密をどう扱うか
利用サービス、保存先、学習利用の有無、アクセス権、再委託先を確認できるか。
更新時に何を試すか
モデル変更を検知し、同じ試験音声で差分を確認する手順があるか。
文字起こしAIの銘柄だけを尋ねるより、この6項目のほうが実務を映します。回答が具体的なら、原稿の忠実性を工程で管理していると判断できます。
編集工程まで設計する
内製が向くのは、取材担当者が原音へ戻る時間を確保でき、機密管理とモデル更新も自社で担える場合です。外部パートナーが向くのは、取材設計から確認進行までを一つの編集方針で揃えたい場合です。
baluboは、AIを独立した事業の柱ではなく、制作工程と品質管理を支える手段として扱います。途中工程からのご依頼にも対応しますが、用語準備や質問設計から関わるほど、後戻りは減らせます。予算に合わせて担当範囲を組み替えます。
まとめ
文字起こしAIの分かれ目は、平均精度だけではありません。取材では、フィラーや自己修正を残す設定、固有名詞を渡す仕組み、話者分離、原音へ戻れるタイムスタンプが編集品質に直結します。
MAI-Transcribe-2では verbatim が既定です。clean も会議メモや字幕には有効ですが、取材素材に使うなら逐語版と原音を別に残します。AIに読みやすさまで任せるのではなく、素材を保全し、整える判断を編集工程へ置く。この順序が、発言の忠実性と読みやすい原稿を両立させます。
よくある質問
フィラーは原稿に残すのか
公開原稿にすべて残す必要はありません。逐語版には残し、編集版で意味を変えない範囲を整理します。迷い、否定、自己修正、時系列に関わる箇所は原音へ戻って判断します。
cleanは使わないほうがよいのか
用途によります。会議メモ、読みやすい字幕、公開用トランスクリプトには適しています。取材原稿では、編集前の証拠を残すため verbatim を起点にし、必要に応じてclean版も補助的に使う方法が安全です。
MAI-Transcribe-2は本番で使えるのか
2026年9月7日時点ではパブリックプレビューです。MicrosoftはSLAなしで、運用環境のワークロードには推奨しないと説明しています。機密要件、提供リージョン、障害時の代替手段を確認して判断してください。
参考資料
- Microsoft Learn「Azure Speech での MAI-Transcribe(プレビュー)」(2026年9月3日更新、2026年9月7日確認)
本稿では、公式文書で確認できなかった日本語単体の認識精度、FLEURSの単語誤り率、料金、一般提供時期を評価材料に含めていません。仕様と提供条件は更新されるため、導入時に公式文書を再確認してください。



